邦画でも洋画でもアニメでも、泣けた!というレベルではなく、号泣した映画を教えてください。
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とりあえずアニメ限定でリストアップしてみよう。
蛍火の杜
夏目友人帳
86 -Eighty Six-
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない
これらのアニメだったら泣ける。号泣した作品もある。
でもこれらの作品は、この機会に「アニメの印象を書いてみたい。」とは思わない。
なぜなら「書きたい!!」と思える作品を真っ先に思いついたから。
その作品の名は・・・・
映画『聲の形』 (2016年 京都アニメーション制作、監督 山田尚子、原作 大今良時)

『聲の形』は、「かつて聴覚障害を持つ少女をいじめた少年が、成長後に再会し、贖罪と和解を試みる物語」として受け取られがちです。しかし私はこの作品の本質は、「気持ちを伝えることの難しさ。分かり合うことの難しさと、それでも繋がろうとする姿」を描いた作品だと思います。そこには当然「切なさ、もどかしさ、それでも他者と繋がりたい欲求」など、誰もが感じたことがあるであろう普遍的な願望と痛みが含まれています。
『聲の形』は、そういった思いを抱いている主人公 石田将也とヒロイン 西宮硝子という『不完全』な二人が、悩み、苦しみながらも成長してゆく過程を、京アニならではの圧倒的表現力で描き出した人間ドラマだと思います。
雑に、論評していきたいと思います。
1. 「聴覚障害」と「イジメ」: 悪意だけでは説明できない構造的な暴力
物語の前半で描かれる小学生時代の「イジメ」は、一見すると、石田将也が悪者に見えます。しかし、山田尚子監督の演出は、加害者である将也を一方的な「悪」として断じることも、被害者である西宮硝子をただイジメられている可哀想な少女とは描きませんでした。
退屈を恐れる小学生の将也にとって、耳の聞こえない硝子は「理解不能で異質な存在」でした。
硝子が転校してきた頃の将也は、「お前さぁ、もっとうまくやらねぇとウザがられるんじゃねぇの」と硝子を気遣っていたのですが、硝子の存在は、クラスという閉鎖空間では周囲の無理解や疲労感を招き、やがてそのストレスが将也を「イジメ」へと向かわせてしまいます。
子供特有の未熟さや集団心理が将也をエスカレートさせたのかもしれません。
硝子が最後に登校した日の放課後、硝子は将也の机に書かれた落書きを消そうとします。
それを見た将也は「気持ち悪い」と吐き捨て、二人はそのまま揉み合いとなり、硝子は初めて偽らざる心情を吐露します。
「これでも頑張って・・・」
結局「イジメ」が原因で硝子は転校することになりました。硝子が転校した途端、これまで将也の行動を煽ったり、見て見ぬふりをして「イジメ」に加担していた教師や同級生たちは、すべての責任を将也一人に押しつけて吊し上げ、彼を新たな「イジメの対象」へと転落させます。
特に竹内先生は将也を主犯として糾弾しました。その判断自体は間違っていません。しかし同時に、それは教師自身がいじめを見て見ぬふりをしていた事実をも浮き彫りにしています。
本作が問題としているのは、「イジメ」という行為の悪質さだけでなく、「異質なものを排斥することで平穏を保とうとする集団の自己防衛本能」という構造的な暴力です。クラスの中で「異質な者」という認定を受けた将也は、自身が体験して初めて硝子の気持ちを考えるようになりますが、硝子を傷つけた代償として、今度は「イジメ」られる対象となり、友人を失い、自尊心を完全に破壊され、心の耳を塞ぐ (他者の顔に「×印」が貼り付く) ことになります。
2. 互いを疲弊させる「自己否定」の共鳴
二人は高校生となり、過去の罪悪感から自殺を決意した将也は、最後に硝子へと会いに行きます。ここから二人の「再生の物語」が始まりますが、その道のりは平坦ではありません。なぜなら、二人とも「深刻な自己否定感」を抱えているからです。
小学生の時の将也はガキ大将気質で、スクールカーストでも上位に居ました。しかし、硝子を巡る一連の「イジメ」から心に傷を負い、他者の顔を見られないようになり、人と繋がることを諦め、心を閉ざしていました (他者の顔に×印)。
一方で硝子は、過去に同世代の友人を作ろうとしたが、相手に拒まれ続けた経験から、何かあると作り笑いを浮かべてやり過ごしてしまう悪癖がついてしまいました。
性格も理由も違いますが、二人とも、誰かと繋がりたいのにうまく繋がれない。という共通点を持っています。
お互いの性格からなのか、二人は互いを思いやるがゆえにかえって相手を追い詰めてしまいます。将也は「硝子を救うこと (手話の習得や過去の友人との再会)」で自らの罪を贖おうとします。将也は友人を得て、ようやく人との繋がりを取り戻しかけますが、植野の登場によって、その繋がりは再び崩れ始めます。
一方の硝子も、自分と関わることで将也が再び周囲と衝突し、苦しむ姿を見て、「私と一緒にいると不幸になる」と将也に告げるのでした。
思えば、みんなで遊園地に出かけた時は、皆生き生きして楽しそうでした。そんな皆の姿に将也は「あれ、いいのか?。俺がこんなに楽しんで・・・。でも、これってなんか俺っぽい。ほら、なんていうか、友達っぽい!!」と心の中で呟いていました。
しかし、関係が再び壊れた後、将也は「今年の夏休みは楽しいな」と言いながら空回っているようでした。
そして硝子は、「自分が消えればすべてが解決するのではないか」という誤った結論に達し、マンションのベランダから飛び降りようとしまいます。
「優しさ」や「思いやり」というポジティブな感情であっても、自己否定に基づいている限り、いつかは他者を、自分を傷つけることになるかもしれない。空回ったり、すれ違っている二人の姿を見ていると、ふと、そんなことを思ってしまいます。
3. 「聲」ではなく「姿勢」で伝える心の再生
映画のクライマックス、将也はベランダから転落しそうになった硝子を助け上げ、代わりに自身が落下の憂き目に遭い、意識不明の重体となってしまいす。
自殺未遂の後、硝子は・・・。
植野からは激しく責められ、なじられ・・・
将也の母親にはただ、「ごめんなさい」と謝ることしかできなくて・・・
「どうすればよかった」と声を絞り出している結絃には何も言えずに・・・
でも、永束と話すうちに自分がどうしたいか、どうすべきかが硝子の中で具体化していきます。
「私が壊してしまったものを、もう一度取り戻したいです」
硝子が「逃げる人」から「向き合う人」へ変わった瞬間でした。
佐原が「私、自身ないよ。もし、石田君が目覚めても会わせる顔がない。私は、変われなかった。硝ちゃんのコト、また守れなかった」と弱音を吐いたとき、「これから変わる」と優しく慰めます。
以前の硝子だったら「これから変わる」という言葉は出てこなかった気がします。自分を変えようとしている硝子だから言えたと思います。
それから、自分を否定し続けた植野にも会いに行きます。
硝子が変わるきっかけを掴み、成長し始めたのは自殺未遂以降だと思います。
人と繋がることを恐れないで、みんなに会いに行く。今までの硝子からは考えられない行動力です。
意識を取り戻した将也は橋の上で硝子と再会し、硝子に告げます。
「生きるのを手伝ってほしい」
この言葉は、単なる告白ではありません。
お互いに傷を抱え、不完全なまま、それでも相手と共に生きていきたいという願いを、将也が初めて素直な言葉で口にした瞬間だったように思います。
「手伝ってほしい」という言葉は、一見すると弱さの表れにも聞こえます。しかし、それは誰かに依存したいという意味ではなく、「自分一人では生きられないことを認める勇気」でもあります。
小学生の頃、硝子が何度も「友達になりたい」と歩み寄ろうとしても、将也はそれを拒み続けました。
しかし、多くの痛みと後悔を経験した今の将也は、ようやく「人は一人では生きられない」という事実を受け入れます。
だからこそ、「生きるのを手伝ってほしい」という言葉には、
「これからは君を拒絶しない」
「今度は君と一緒に生きたい」
という決意まで含まれているように私には感じられました。
将也が最後に「やばい、キモイことやっちゃったかなぁ~」と動揺したのは、言葉が持っている『告白』的な意味に初めて気づいたからでしょう。
硝子が将也の手を取り、指切りげんまんするように両手の小指を絡ませて上下に振る動作は、手話の意味通り「約束」。二人は「共に生きる約束」を交わし、その第一歩を踏み出しました。
いずれにせよ、自殺未遂事件を乗り越えて、硝子は「自分が世界の害悪だ」と諦めるのを止め、自分の意志で立ち上がる強さを獲得しました。将也もまた、「自分は許されてよい存在なのか」という自問自答を乗り越え、他者の顔から貼り付いていた「×印」を剥がし取ります。
4. 不完全な私たちが、それでも大切な誰かと繋がるために
映画『聲の形』は、「いじめっ子が反省して良い人になりました」「障害を持つヒロインと結ばれました」という安直なカタルシスを与えてはくれません。過去に犯した過ちは消えず、過去の同級生たちとの溝や現実の厳しさは、以前と変わらず続いていますが、将也も硝子は未来に向かって歩き始めました。校内で将也の手を引いて歩く硝子を見て、「ああ、これから二人は互いに足りない部分を支え合いながら歩いていけるんだな」と思えました。
ラストシーンで、植野をからかう硝子と、軽口を叩き合いながら笑い合える仲間が描かれます。
そして将也の耳に飛び込んでくる世界の雑音と、「×印」が取れた人々の表情、そして溢れ出る涙は、将也と硝子が一歩前へ進んだことを示し、未来への静かな希望を感じさせる終幕でした。
あたかも、山田尚子監督や制作陣が、
「私たちは将也と硝子をほんの少しだけ成長させました。
あとは皆さんに将也と硝子をお返しします。二人のこれからをよろしくお願いします。」
と言っているように感じるエンディングだと思います。
「自分は誰かと分かり合えるのだろうか」
「自分は誰かと繋がることができるのだろうか」
「こんな自分でも生きていていいのだろうか」
誰もが一度は抱く問いに、この作品は真正面から向き合い、そして「それでも生きよう」と背中をそっと押してくれる。
私にとって『聲の形』は、涙を流す映画ではなく、生き直す勇気をもらう映画です。