時計台放送

我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します。
東大全学学生解放戦線 1969年1月19日午後5時50分

ニュースを見回せば猫も杓子もニッポン放送のお話ばかりでいい加減辟易しています。関心は高いのかも知れませんがニュースヴァリューと報道量のバランスが悪いような気がしていましてね。ニュースバリューに比して、割かれる時間は多すぎだと感じています。
「くだらないなぁ〜」 と感じながらも耳にしているこのニュース。「ホリエモンと日枝氏、どっちを支持しますか」 などという該当アンケートの結果をもっともらしく解説している評論家が 「全共闘世代がホリエモンを支持する傾向にある」 などと言えば、冒頭の時計台放送を思い出してしまいます。
体制に反発し、それを打破することでアイデンティティーを確立しようとした青春群像と言えばシンパシーを感じるのかもしれませんが、日米安保闘争にせよ何にせよ、共産勢力の工作員、扇動家によって工作・扇動されていた (されてしまっていた) 側面もあって、反体制に青春を捧げたと言えば同情も集まろうが、真正直さというか、愚直さというか、いかにも人の食い物にされそうな警戒感のなさは、いずれにせよ涙をそそります。彼らは、ホリエモンが勝利した暁には、安田講堂で時計台放送を再開して欲しいと望むのでしょうかね。

閉塞した現在において、堀江社長のように既存勢力に勝負を挑み、引くことなく旧体制を破壊しようと試みる若者の姿は輝いて見えるのかも知れない。そして私も、堀江氏のようなバイタリティー溢れる人が活躍する時代は到来すべきだと思う。それによって社会の活力を取り戻し、旧態然とした閉鎖的な慣例や価値観を破壊すべきだと思う。しかし、堀江社長にシンパシーを感じる人たちが口々に発する堀江氏への好意は、彼が持っている具体的なヴィジョンやイデオロギーに共感しているのではなく、ただ、体制に挑戦しているというイメージに好意を持っているだけに過ぎない。それは幻想であり妄想に近い。実に上っ面だけの儚い好意だ。将来堀江氏が、無責任に、そして、自分勝手に好意を抱いだいた者から、裏切り者と口汚く呼ばれる日が来ないことを祈る。同時に、全共闘世代の生き残りが、あれから何十年経っても、未だ自分で深く考え判断することなく、偏った論調とイメージ、印象操作に惑わされて過ごした青春時代の愚かを引きずっているコトに閉口して止まない。彼らは一体いつになったら印象に惑わされず、自分で考え自分で判断し、そして自分の足で立って歩くことを学ぶのであろうか。いつまでたってもナイーブで、そしてあんたら、だらしないんだよ。
堀江社長は旧体制の破壊のために戦っているわけでもなければ金のためだけでもない。人のために戦っているわけではない。自分が望むところのものを、自分の力で手に入れようとしているだけ。別に社会のために正義感に燃えてやっているわけでも、安田講堂で演説したいためでもない。全共闘世代のシンパシーを期待しているわけでもない。エゴイスティックに自己表現しているだけ。ただそれだけ。大義もなければビジョンもない。だからといって正しいわけでも悪いわけでもないが、ただ、印象操作されすぎの全共闘引きづったひと達が沢山いる。ただそれだけ。

今の日本がだらしないことを、ものすごく納得する。
是非もなし・・・。であるか。
長調に締めてみる。
# 全共闘の夢から覚めない子供達に、この皮肉は通じるだろうか?