温度差


娘。ヲタと高橋ヲタの厳密な定義はとりあえず置いておくとして、両者の微妙な温度差を感じた飯田さん、チャーミーさんの卒業報道でした。
というのも、卒業発表と、高橋愛 3rd写真集 「わたあめ」 の発売時期が近かったために、高橋ヲタのテキストサイト界隈を見ていると、そこだけ卒業ネタの暴風域から外れている傾向を感じました (もちろん全ての高橋ヲタサイトとはいいません)。
それをどーこーと言う気はありませんが、こうした傾向を見るにつけ、あっ、オレって高橋ヲタじゃないなぁ・・・。と感じたわけです。少なくとも高橋愛 至上じゃないみたいですね。

まず、私は高橋愛 個人を推しているつもりではありましたが、「モーニング娘。 高橋愛」 という集団の中の個という視点を捨てられない点が一点。
ヤンタン 「宝塚へ行く気満々」 発言以来、甚だ引いているのが一点
「わたあめ」 に食い指が動かないのが一点。

たぶん、もう十分に、非高橋愛ヲタ度満点だと思います。
それでも意識上はまだ高橋愛を一押しとしていますけど・・・。しかしまぁ、なんというか・・・。


結局のところ高橋愛って何者?みたいな・・・。
それはネガティブとか否定批判のベクトルを持つモノじゃありませんが、後藤真希とは違った意味で高橋愛はソロ向きだと思うんですよね。集団行動が苦手とか、そういう意味じゃぁありません。
ソロ向きである人間が、モーニング娘。という集団において、集団全体と自分自身の間で、プラスの相乗効果をもたらすことが困難であろうと思われます。モーニング娘。という集団を視点として高橋愛自身を見たとき、高橋愛自身が持つその欠落に気づく。
その欠落とは、ポジションに応じた集団を維持させようとする決意とエネルギー、熱っぽさかも知れない。
娘。本体を主として考えた場合、最大の評価点はまずそこであり、例えば遡って姐さん、なっち、いいらさん、矢口、圭ちゃん、チャーミーさんが高い評価を得る部分もそこである。
娘。本体と高橋愛個人との関係性に視点をおき、集団の中の個と言うものを重要視する視点で高橋愛を見る人は、概ね高橋愛ヲタには成りにくいのではないだろうか。逆に、その部分を無視することのできるモノが高橋ヲタになるのだろうか・・・。真実はわからない。
ただ、私が今回の一連の "気づき" の中で思うことは、恐らく、オリメンから綿々と続く "想いのリレー" 的な内向きなストーリーによる連帯感において、他のメンバーとの比較からその密度において比較的薄いであろう高橋愛とヲタは、娘。ヲタよりもむしろ一般的なアイドルヲタであると言え、その指向性は、娘。ヲタよりも外向的と言える側面を持ち、一般的なアイドルヲタに近いと言えかもしれない。
これは、モーニング娘。メインフレームが形骸化しているコトを示す顕著な例であり、こうした方向性が将来において、どのような作用をもたらすかについては一定の考察に値するテーマだと私は思っている。



そんな訳で前置きが長くなりましたが、「高橋愛ハルウララ」 。

前回共通項は 「未勝利」 であるというコトを明言しました。競走馬にとっての勝利とは即ちレースに勝つこと。それ以外ありません。
しかし高橋愛における勝利とは、娘。内においてメインボーカルを張るとか、目立つとかそういうことではありません。端的に言えば "次期エース" という言葉から "次期" がとれてはじめて勝利だと思います。


ではエースとは何か。これまた様々な定義がありそうな部分で、一元的な定義はほぼ不可能と思いますが、たんばぱが思うに、「モーニング娘。を背負う覚悟と、覚悟に基づく行動の発露」 はエースの必須条件ではないかと思います。
この部分が欠落しているという評価を受けているうちは、彼女から "次期" の言葉がとれることはないだろうと思う。
その意味で、思えば高橋愛の娘。としての活動は連敗続きだった。
まず、エースの座を射止めるチャンスは数限りなくあった。どの機会においても彼女はエースの座を取りこごした。まさに連敗。
これからがいよいよ正念場になるわけだが、高橋愛は連敗を止めることができるのだろうか・・・。モーニング娘。を主導するメンバーへの成長を果たすか、それとも、個体としてより完成度の高い存在を目指すのか。高橋愛の帰趨には、好むと好まざると限らず注目せざる負えない部分がある。

だから、敢えていいたい。高橋愛ヲタのテキストサイト界隈が、娘。というメインフレームに言及し出したとき、そこに新しい未来像があるような気がする。だから、高橋サイトでは、今回の卒業報道を気安くスルーして欲しくなかったようなわがままを感じつつ、こうして駄々をこねてみました。



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<コメントレス>
コメント頂きありがとうございます。レスが長くなりそうなので、ここにレスをします

> あえて名無しで 『果たして高橋の参加してるレースに勝者はいるのでしょうか?勝者が存在しないレースを走らされてる気がしてなりません。それも手を抜くことが出来ずに一生懸命に。未勝利であること記事にするなら、一度くらいは勝者のいるレースに出馬させて勝負するチャンスを与えて欲しいものです。モーヲタの戯れ言でした。』

すこし卑怯な言い方かも知れませんが、まず、絶対的な評価としてはあなたのおっしゃるとおり勝者も敗者も存在しないかも知れません。
そのような絶対的な評価の中では私のテキストが無意味であることは承知しているつもりです。
しかし、エースたる要件を、「モーニング娘。を背負う覚悟と、覚悟に基づく行動の発露」 と定義したとき、つまり、彼女がモーニング娘。メインフレームを形成していないことに "敗者" の評価を与えるわけです。
では、エースでない娘。はみんな敗者なのか・・・というとそうではなく、彼女が "次期エース" たる役割を、好むと好まざるとに関わらず課されているという理由によって彼女がエースであるか否か。勝者か敗者かという判定を行うことに一定の意義があると私は思っています。

重ねて言いますが、勝者と敗者を分ける絶対的な基準はありません。しかしそれではテキストがまず成り立たないことをご理解いただきたく思います。モーニング娘。メインフレームをなすことを勝者とすることが、本テキストの大前提ですので・・・。

しかし最後に、ひとつだけ別の見解も書かせてください。
アイドルは偶像です。何の偶像かと言えば子供達にとっての偶像である一面を持ちます。
ある人はピンクレディーに憧れて、またある人は松田聖子に・・・。そしてまたある人は安倍なつみに、後藤真希に・・・。彼女らに憧れ、その夢を実現した人が少数であることは間違いありません。
しかし、子供達に夢を与えることができるのは勝者敗者という評価とは関係なく素晴らしいことだと思います。
身近な例でいえば、道重さゆみ高橋愛は憧れてモーニング娘。になりました。第二、第三の道重さゆみも現れるかも知れません。
これがどれほど素晴らしいことか。その事実は、間違えなく私が書く勝者敗者のテキストよりも素晴らしい事実だと言うことを、とりあえず私はわきまえているつもりです。
そのことを承知していながら、重箱の隅をつつくかの如く勝者敗者を言うのは、非論理的ながら、私もモーヲタだからなのです。


> 通りすがりの者 『モーニング娘。は、ひとつの考察対象になりうると思いました。モーニング娘。とその支持者達、と言う題で』

考察対象の一サンプルとして、私も考慮していただければ幸いです。
なんというか、モーニング娘。をコアとするコミュニティーは、Loveマシーンを頂点として減少の一途にあります。Loveマシーン以降、モーヲタと呼ばれるファンのコミュニティーが世間一般と比べどのように乖離しているかということを、おもしろおかしく伝える向きが一部にはあります。より相対的な考察対象として、モーニング娘。とその支持者達と、それを取り巻く社会環境というテーマでも面白いかも知れませんね。そこから導き出される社会論も興味深いと思ってますが、私は客観的な評価が困難なポジションにいますので、少数のモーヲタの特異性を全体とするかのような社会論ではない、より公平な社会論があれば、私も読んでみたいと思っています。