無題


昨日のテキストに関してはっちまんさん
http://d.hatena.ne.jp/hatchman/
から丁寧なレスを頂いたので、そのことについてレスしておこうかと思います。

俺自身は25年来のアイドルファンですけれども、どうなんでしょうか?
個人的には、2002年の春紺あたりから娘。ヲタとなった仲間が多くいます。僕もなんですけれども、その時間軸を埋めることは残念ながら出来ません。
その点を不能者のように思われるのは致し方ないことですが…
中澤卒業以前のハッピーな時代を知りません
どう頑張っても埋まりません。
その通りだと思います。私がいいたかった点もまさにこの点で、不能者と言うのは自虐が過ぎると思い感心しませんが、オリメン時代から続く "想いのリレー" 的な要素の束縛から高橋ヲタが自由であれる点において、高橋愛ヲタはより一般的なアイドルヲタに近く、モーヲタ的なカテゴリーとは一線を画する部分を有しているわけです。
その一般的なアイドルヲタ性・・・。つまり、より主体的にモーヲタだけにアピールするのではなく、モーヲタから一般的なアイドルヲタへの訴求力を強めることに、モーニング娘。の将来があるわけです。その結果として高橋愛ヲタが示して言う方向性にモーニング娘。の将来に方向性を示しているわけです。
将来というのは言うまでもなくファンの新規開拓であります。
その意味で、高橋愛、引いては5期メンの役割とは、オリメン的な役割 (ファンの新規開拓であり、創業) と同じだったと思います。

しかし、この点のある部分においてステレオタイプ化された1〜4期メンヲタと高橋ヲタには乖離があって、それははっちまんさんがおっしゃった通り
先日の宝塚発言に限らず、高橋ヲタならば、高橋愛の夢というものを大なり小なり理解している(つもりかもしれないにしろ)。
その夢を知っている以上、彼女の夢を一緒に見たいって思う。
です。はっちまんさんもそれが 「温度差」 の原因であることを洞察されております。

たんばぱから見ると、かような洞察を有していながら 「別に集団の中の個を重要視していないわけではありません。無視をしているわけでもない。」 と断言できてしまう部分が私には正直不思議でなりません。

はっちまんさんは 「モーニング娘。はソロになりたいものの情熱の集合体だった。」 とおっしゃいます。これはその通りです。
しかし、そのソロ志望も、モーニング娘。として活動するにつれて変質があったように思われます。
その変質とは何か。メンバー自身がソロになりたいと思う以上にモーニング娘。という集団を愛おしく思う。という気持ちです。
「one for all, all for one」 ですよね。例えば飯田さん。飯田さんは新しいメンバーが加入するに連れてパートが減少し、結果的に2期タンポポから追われることになりました。飯田さんは心情を隠すことなく3期タンポポに加入した紺野、新垣と意識的に距離を置いたと発言しています。
発言できたということは、そういう感情から解放されたことを意味しているわけですよね。飯田さんがそれを受け入れた背景には、例え自分の居場所が奪われても、それが後輩のため、モーニング娘。のためになるならば、自分は自分の自己主張を抑えて後輩達のバックアップに回ろう、盛り立て役になろう。という意識作用があったはずです。リーダーという立場もあったでしょうか、そういう心理作用の元に、誰に誇ることもなく要求された自己犠牲を受け入れたわけです。
半分ネタかも知れませんが、ハロプロニュースを後進に譲ったチャーミーさん(?)も同じではないでしょうか。飯田さんも、チャーミーさんも、自分がそもそも志望していたソロへの工程として後進に道を譲ったのではなく、モーニング娘。という全体のために自分を殺して後進に道を譲ったのだと思います。
同じ屋根の下にいる家族のタメだから、自分を殺してでもできることなのだと思います。

後進の活躍、出番は先輩のそうした気持ちの上に成り立っている部分があるわけです。
過激な言い方をすれば、そうした先輩の想いを、恩を仇で返すが如く 「宝塚へ入る気満々」 な高橋愛や、また、そうなっても高橋愛についてゆける高橋ヲタに、1〜4期ヲタは心中ただならぬわけで、そういう部分をもっと知って欲しいと願うわけです。
この願いが通じていないかに思えることに、私は 「娘。本体と高橋愛個人との関係性に視点をおき、集団の中の個と言うものを重要視する視点で高橋愛を見る人は、概ね高橋愛ヲタには成りにくいのではないだろうか。逆に、その部分を無視することのできるモノが高橋ヲタになるのだろうか・・・。」 と言うわけです。
噛み砕いて言えば、高橋と、高橋ヲタは、そういう先輩達の理解が伝わってますか?ということです。集団の中で個を認識すると言うことは、個を盛り立ててサポートする集団と、その集団に貢献しようとする個の意識でしょ。
誤解を恐れずに言えば、先輩達の我慢を心で理解して、先輩の分まで頑張ろうとする姿勢や意気込みを今の高橋愛に感じますか?ということで、高橋愛の夢を一緒に見たいと言うことは、高橋愛のためにモーニング娘。全体が踏み台にされることを許容できるんですか?という温度差なわけです。

2ch狼等で、現実の現象以上に誇張されているモーヲタとオラヲタの乖離ってのはそこじゃないでしょうか。

ここで話は元に戻るのですが、こういった相互の意識に優劣や正誤を求めるつもりはさらさらありません。ただ、寂しいだけです。


最初は、自分の推しメンの実力不足と認識していたことが、いつしか高橋は推されているという言葉に摩り替わっていくように…。
> その意味で、思えば高橋愛の娘。としての活動は連敗続きだった
先日の日記に書いたとおり、勝った負けたではないと思っております。
高橋愛を "連敗続き" というのは、娘。のメインフレームを担えなかったことだけではなく、その後ろには、先輩が託している期待に今のところ応えられていない。ということも同時に内包しています。
勝った負けたではない。確かにおっしゃる通りです。ですが、高橋愛が託された期待に応えるということは、彼女の人生において価値あるものだと思いますし、高橋愛のために出番が失われたかも知れない先輩を推すヲタが、代償行為として高橋愛に期待することは当然とも言えるわけです。
なのではっちまんさんがおっしゃる「個人的にこの表現が悲しいのは、高橋愛への愛情を感じる一方で、他馬(笑)への愛情を感じないことですかね。」 というのは甚だ心外で、高橋愛への想いと等質等量の想いを持って他メンも見ているから、期待に応えられない高橋愛を未勝利馬を言うわけです。
更に言うなら、いつまでも "次期エース" の称号から "次期" の二文字がとれないにも関わらず、高橋愛が "次期エース" として身内から許容されている背景には、高橋愛の努力が、例え結果に結び付かなくてもみんなが知っているから、高橋愛はいつまでも期待されているのだと思います。高橋愛が手抜きをやっているなら責めようもありますが、一生懸命だから身内は高橋愛を責められないわけです。
そのことにうすうす気づいていてもなお、高橋愛を "未勝利" と言うのは、高橋愛が影で努力している姿を私は実際に見ていないからです。そして、やっぱり自分が高橋ヲタで期待感もまた大きいからです。しかし何より、「宝塚入る気満々」 のように、家族 (他のメンバーやスタッフ) の期待を裏切って欲しくないからという、高橋ヲタである前に、まずモーヲタである心理の軌跡で、または、本年の豊富を 「マイペースで頑張ります」 と言う高橋愛に向けて、「いや、高橋はマイペースでいいわけないからもっとピッチ上げて」 という気持ちに通じるわけです。
多くの人が指摘する、高橋愛の、他者との関係性を認識する能力の欠如ってのは、つまるところこういうことなのです。


飯田さんとチャーミーさんの卒業というのは、娘。全体にとっても高橋にとっても待ったなしで、この事実は新生モーニング娘。的なもので、何期メンというくくりとは関係なく、残る10人は新生モーニング娘。のオリメンだと感じる点ははっちまんさんを一緒です。
私が、ステレオタイプ化した高橋ヲタを、モーヲタよりも外交的な志向性を持つ一般的なアイドルヲタと仮定して 「高橋愛ヲタのテキストサイト界隈が、娘。というメインフレームに言及し出したとき、そこに新しい未来像があるような気がする。」 と言ったのは、モーヲタ的な精神的風土の積み重ねとは関係ないところで魅了されてヲタになった部分が、新生モーニング娘。の新規ファン獲得のプロモ上有益であると思うから、モーヲタではない高橋ヲタがモーニング娘。を語ることに、新しい娘。の未来像があると考えたわけです。どーも、私が紛らわしく書いたせいか、文章の後半へ行くほど、反対の意味に伝わっているようで・・・。
なので、集団から個を認識するか、個から集団を認識するかの部分の相互理解が得られれば、はっちまんさんのいう 「高橋推しというのは、案外普通なんですよ。本来は。」 というのは至極その通りなわけです。


レスはこんなところでしょうかね。
・・・まとまっている、わかりやすいとは言い難いレスのような気がしないではないですけど・・・。
ただ、なんて言うのかな、私が感じるに、「下手に1パートぐらいで満足する(していませんが)よりも、2曲で歌手生命を仮に断たれるとしても、そっちをかおは選ぶと思うから。」 と言える当たりに、それは飯田圭織の全てを言い尽くしてはいないと感じるし、チャーミーさんに関しては、卒業後のその未来だけに考察を加える部分に、モーヲタとしては共感を抱けない微粒子を感じます。無論これらの記述は結論だから、その結論に至るプロセスを聞けば印象も変わる可能性はありますが、圭ちゃんがかおりんとなっちを仲直りさせたエピソードに関する3人の心情とか、圭ちゃんがチャーミーさんに伝えたこととかが、今回の卒業をモーニング娘。全体の集団性の中でどのような意味を持ってくるのか。飯田さんやチャーミーさんが、そうした経験を踏まえて、後輩達に何を伝え残していくのか行くのか。という点を無考察にスルーしている印象を受けました。
たんばぱは、モーヲタという土台の上で、それぞれ各メンバーのヲタだから、彼女たちの将来を思うのと同じ質と量で、彼女たちが自身の将来と同じぐらいそれぞれのメンバーに何を伝え残してゆこうとしているかが気になります。
トータルな温度差は、たぶんそこから来ているんだろうなぁ・・・と思います。