オタクとヲタク


ストックから更新・・・


音楽誌等々のレビューの中で、アイドルをアーティストと呼ぶことに違和感を覚える人はいると思う。私もその一人で主観的には 「アーティスト」 と 「アイドル」 の線引きがあるのですが、もう少し肉付けをしようと思ってぐぐってみました。
しかし、色々なサイトを見る過程で、興味が別の方向へ移ってしまうことも往々起こり得ることで・・・。
で、何に興味を覚えたかというと、「好き」 の対象が (主観的に) アイドルであれ、アーティストであれ、それを語るときの一人称は、ファンと言うかオタク (ヲタク) と言うかに違いがあること。
もう一つはオタクとヲタクという二つの書き方があると言うこと。に興味が行ってしまいました。


といあえず、オタク (ヲタク) の定義を簡単に。

オタク *1
俗に特定の分野・物事を好み、関連品または関連情報の収集を積極的に行う人。狭義には、アニメーション・ビデオ ゲーム・アイドルなどのような、やや虚構性の高い世界観を好む人をさす。「漫画―」
〔多く「オタク」と書く。二人称の「おたく(御宅)」を語源としエッセイストの中森明夫が言い始めたとする説が有力。1980 年代中ごろから用いられるようになった〕

ヲタク *2
おたくの別表記。ヲタ。
〔「おたく」の語形に比して,蔑視(べつし)や自嘲(じちよう)の意味を伴う場合もある〕

(いずれも、goo経由 三省堂提供「デイリー 新語辞典」より)


なるほどねぇ・・・。
ついでに、おたく考についても、ページを一つ紹介。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA012337/private/otaku.html




オタク (ヲタク) ではなくファンと自称する人の、ファンとオタク (ヲタク) を分けている主観的な線引きは推測の域を出ませんが、辞書の定義とさほど違っていないと思われます。
幅広い自分の好みの中で、好きなモノAに関しての一人称はファンであっても、好きなモノBに関しての一人称はオタク (ヲタク) であることもあり、ファンとオタクが一個人の中に同居するコトは、当たり前と言えば当たり前かも知れないが面白いと思う。

次に、オタクとヲタクの違い・・・。
私が娘。(ハロプロ) にはまっていく過程は、確かにファン → オタク → ヲタク という一人称変化の経緯を辿っているのですが、ファンと、オタクの意味に関しては辞書の定義のままでいい。しかし、ヲタクについては、私がヲタと自称するとき、そこに蔑視や自嘲の念はありませんでした。
興味関心を深める過程で他のサイトを見ると、"ヲタ" という言葉ばかりが使われている。映画 "ラジオの時間" を "ラヂヲの時間" と表記するような、もしくは椎名林檎的な、粋な言葉遊び、遊び心、ファッションみたいなものだと思い込み、蔑視や自嘲など思ってもみなかった次第です。


もし、辞書通りの定義でヲタのテキストを読む人がいるならば、彼らは私のテキストから何を感じるだろうか?
"ヲタ" を自称することから自嘲的な意を感じ、「アイドルというものに熱心になる自分と、社会通念上、自分がアイドルというモノに熱心になっていて適切か適切でないかのギャップを、自意識の中に持っている」 と感じるかも知れない。
しかし、私はそんなことは微塵も思っていない。(しかし、自身の日常生活範囲でのカミングアウトに関して心情複雑ではあるから、見抜かれていると言ってもいいかもしれないけど)

(ちょっと話が逸れた・・・。)
思い起こせば、ヲタ界隈でも、聞き慣れない言葉はたまに目にする。例えば、必死系とか・・・。なんだかわかったようなわからないような感じだ。
一般の人が、ヲタだの必死系だのと聞き慣れない言葉が用いられるサイトを見たら、たぶん、理解不能でしょうねぇ。(良い悪いを言いたいのではない。断っておくと・・・)


オタクは元々好みに著しく偏りがあり、その嗜好の世界は極めて自己完結的で、他者とのコミュニケーションをあまり必要としない。コミュニケーションをもっても、それは同じ嗜好を持つ人で作る限られた閉鎖的なコミュニティーの中でしかない。というようなイメージはあったと思います。

しかし、現代のオタクコミュニティーはちょっと違う。
インターネットという文明の利器を手に入れて、様々なコミュニケーションを取る。そのコミュニティーは一般の人から見れば奇異であるかも知れないが、少なくとも現在のオタクコミュニティーは閉鎖的ではない。(一般の、興味のない人が近寄りたいと思うかどうかは別として・・・)
であれば、現在のヲタというのは、言語的な定義はともかく、実状的には、"オタク" という言葉が生まれる以前の、熱心なファンとかマニアという言葉が意味するモノに近いのかも知れない。

実際問題として、ヲタの作るコミュニティーが一般から忌避されている側面は確かにあるのですが、忌避される原因は、「対象の良さがわからない。自分の嗜好とは異なる」 という実質的なものではなく、そのコミュニティーで日常的に使われている言葉の違いから来る、「言っていることが理解できない」 というコトから来る忌避なのかも知れない。(「いい年してまだアイドルに夢中なのかよ。お前らは子供だなぁ・・・」 というヲタ (私) が思う一般層の心情を推察した主観は考慮していない・・・)
それはあたかも、コギャル語にも見られた、言葉の意味の定義付けの異なりから感じられる異質感であり、その異質感は、例えば学問上の専門用語のように高尚なものと認識されていないコトによる。決して高尚なものとは言えないサブカルチャーの中で、言葉の定義付けの独自性や、そのコミュニティーの中でしか通用しない言葉があることは、なるほど、異質な感じがしないことはない・・・


しかしこれは、私が思うにことさらヲタクコミュニティー固有の現象ではない。最大の大風呂敷を広げれば、日本全体がそうで、○○界でしか通用しない隠語みたいなものもそうだ。(別に悪いとは言わないけど・・・) 独自の言葉を持つことで、コミュニティーの独自性を作り出そうとしているじゃないか。
まぁ、隠語の類はいいよ。知らなくても実害は少ないから・・・。しかし、明らかに一般大衆向けに情報を発信しているマスコミや政治家など、パブリックな存在でなければならないものまでも、怪しげな造語を乱発したり、言葉を言いかえてみたり、言葉狩りをするに至り、本来コミュニケーションツールであるべき言葉が、その役を果たしにくい環境になってきているじゃぁないか。(ちょっと怒り)
なので、別のコミュニティーに住む人 = 言語感覚 (言葉の定義付けなど) が異なる人とのコミュニケーションは結構めんどくさくて、言葉の定義付けからはじめないと相互理解が得られない場合もある。

私は、こうしたコミュニティーの異なりから来る言語の意味のズレや、コミュニティー独自の言葉を、"新しい方言" と呼んでみたいと思う。
日本人は議論下手って言うじゃないですか。
まぁたしかに議論下手なのもあるかも知れませんが、そもそも、言葉に曖昧さを含んでいる言語を長く使ってきたり、または "新しい方言" の問題で相互理解が困難だったり、議論下手なのは、議論に用いる言葉というツールそのものに問題もあるんじゃないかと思ってみました。
だとするならば、人が本質ではなく言葉のイメージから連想される印象によって左右されること甚だしく感じられ、そもそも、実質を顕さない言葉の価値とはどれほどのものだろうかと思う。
「以心伝心」 などという言葉がある我が国らしいと言えばそうだが、言葉を実質から遠ざかってゆく様 ---もしくは、実質から遠ざけようとする様--- に、そもそも、意識的な作為が込められているように思える。その作為が何かは敢えて明言しませんけどね・・・。


我ながら、とんでもないところに結論がきた。