灰になった体を両手に抱いて


東京事変がヤケに御機嫌で調子良いたんばぱです。こんばんわ。

今日はとっとと寝る予定だったのですが、win98とディアルブートでインストールした2000でマウスが認識されなくてねぇ・・・。2ndマシンのOSアップグレードのために今日も夜更かしです。

高校の時に洋楽に嵌って以来、約5年ほど邦楽はほとんど聞かない時期がありました。
その頃大ヒットして、日本中が盛り上がったラブマの時でさえ、「日本の未来は世界が羨む?」。「バカいってんじゃないよ。日本の未来なんて誰も羨ま〜ねょ」とうそぶいていた私が、今は 「夢はでっかくせかいせい征服。国家はラブマ」と言っているわけだから、人生は分からないものです。
それくらい洋楽一辺倒だった私が邦楽へと引き戻したの人の一人がシーナリンゴ嬢なわけですが、もう一人はcocco
リンゴ嬢は東京事変として復活し、coccoも来年には音楽活動を再開するとか・・・。私個人にとってはこの上ない至福です。
それは音楽的にどーこーというモノではなく、思想的に、かつ、哲学的な側面から好ましいものと思っております。

シーナリンゴ、cocco、それと場合によっては鬼束。
ある種の人々にとってこれらはセットで語られるコトもあって、気を使いながら話さなければならないシチュエーションに出くわすことも度々なのですが、私が思いますに、それは別に不思議なコトじゃなくて、彼女らへの共感性は、だいたい一つの言葉で言い表せます。

寂しいんだよね。
誰かに、自分がここにいることを認めてもらいたい。
そして、誰かに存在を認めてもらって、肯定してもらうことによって、自己の存在をより価値あるものに高めたいと願う。

突き詰めれば、そんな傾向が読みとれないでもない。

結局のところ、彼女らのコアなファンは、彼女らを、そーいう哲学的な領域にまで高めてしまった・・・、もしくは、勘ぐってしまった過剰さが、本人達にとって重荷であったかも知れないという憶測を呼び、そのことは思考の範囲の仮定として成り立つかも知れない領域に属しているのかも知れません。

さて、話は飛びます。

新垣里沙という女の子がいます。
私は多分、彼女を、モーニング娘。を愛し、そしてそれをある種の自己証明として存在しているものと認識するでしょう。彼女自身の思いが将来変わってしまっても、私は、彼女を、「モーニング娘。を愛した人」 として記憶に留めるでしょうでしょう。
新垣里沙に止まらず、他のメンバーも、彼女らがかき鳴らした自己証明を心に留め、そして、記憶のうちに現在形の形で書きとどめつづけ、そしていつかそれは、過去形の形で記憶に封印されてゆくものとなるでしょう。

だからこそ、私は彼女らの中に、形としてはっきり記憶に留められる、彼女たちが奏でる自己証明を感じようと、躍起になっているのかも知れません。
ふと、そんなことを感じた、Windows2000のセットアップに苦しんでいる深夜です