哀は愛よりいでて愛よりも愛し (訂正加筆)


哀は愛よりいでて愛よりも愛しい

言うまでもなく、"藍は藍よりいでて 蒼より蒼し" をもじっています。
「(高橋)哀(さん)は(高橋)愛(ちゃん)よりいでて愛(ちゃん)よりも愛しい」 という風に意味を重ねていることもまた狙いですが、愛情はいつもいつの時も、哀しさも内包しているものだと思っています。愛は、哀しさが伴うからこそ実感できる側面を持つのだと思います。


愛してもいない、どーでもいい人間のコトならば、その人が何をしようとどーなろうと気にかけることすらないでしょう。でも、そこに愛があるからこそ、無視することが出来なくなる部分があります。
しかし、人間というものは、自分自身の人生さえもままならぬもの。思い通りにはならないもの。それでどうして他人のコトまで思い通りに出来るでしょうか。
もし愛する人が過ちを犯したとき、愛する人が過ちを犯しそうになったとき、そして、それをどうすることも出来ない自分の無力を感じたとき、人は愛ゆえに哀しむのです。哀しむしかないんです。だけど、その哀しみの中で自分がその対象となるべき人を愛していると感じるのだと思います。たぶん。

そしてそんなとき人は、時として哀しみを受け入れるために、愛から生まれた哀しみさえも、愛した人のために、愛してしまうのだろうと思います。

哀しさは、愛から生まれてくる時もあるけれど、時として、愛よりも愛おしく思うこともあるのだろうと思います。

そーいう理由のサイトタイトルなので、高橋愛とは切り離して考えていただければ幸いです

余計な一言付け加えさせていただければ、愛という名前は、とても良い名前だと思います。でも、哀も、---名前としては全然相応しい言葉ではありませんが---哀も、逆説的に負けず劣らずだと思います。
もっとも、哀しみなど、感じることは少ないに越したことはないのですけどね・・・。