減点法


土曜日、ごくせん見逃さないように8時半ぐらいから日本テレビ見ていたら、その時間帯には堺マチャアキとかくりーくしちゅーとかが出演している脳力なんちゃらとかいう番組を放送していました。
でね、最近話題らしい 「頭がいい人、悪い人の話し方」 とか言う本を書いた樋口裕一という人が出てきて、なにやらチャック正式のVを放送したわけですよ。
このチェック、自分がどれだけ頭の悪い話し方 (自分が他人に対して、どれだけ 「この人頭悪いな」 と感じさせる話し方をしているか) をしているか?というチェックなんですけど、今日になってふと思う?
「樋口某って奴が一番馬鹿なんじゃない?」
いやね、学校では頭の善し悪しをテストで判断し、明確なバロメーターがあるからいいけど、社会に出たらテストの機会は少なくなる。そこで、人がどこでその人の頭の善し悪しを判断しているかといえば、それは話し方だ。などという、一件もっともらしい理論武装しているけれども、妙にインチキ臭いような気がしてきた。もっとも、その放送中は、オレも馬鹿顔して、そのV見ながら自分の話し方をチェックしていたのだけれども・・・(^^;

さて、そのチェック、先に言ったとおり、自分がどれだけ頭の悪い話し方をしているかという、減点法のチェックなわけですよ。
よくよく考えてみれば、オイコラ待てよ。って話で、オイコラ待てよ。と思ったときに得心。
何らかのバロメーターを考案して、売れるんだから、樋口某は確かに凄いんだろうけど、そーいう学校でしか通用しない減点法みたいなモノをいつまでも背負い込んでいるのは、視野が狭いと言うか学者ならではというか・・・。
頭が良い悪いってのは、社会に出たらまず、結果によって判断されるので (もっと、頭良い悪いじゃなくて、使える使えないって言うけど)、話し方なんかそれ程重要ではないわけですよ。不要であるとも言わないけど。話し方よりも結果の方がシビアで、結果が出た瞬間、それ以外の要素はほぼ無価値なのでね。(まぁ、話し方によって洗練されていないとか田舎っぽいとか言われることはあるけど)
それと、社会はもう既に、減点法ではなく加点法ですよ。
ある一定の評価基準とかスタンダードを設けて、それに比して何が劣っているかなどと言う減点法の思考は今や古いですよ。一つの分野でも良いから、何かの分野で圧倒的に、絶対的に抜きんでているモノを求めますよ。残りはずば抜けて劣ってなければいいのです。
評価基準とスタンダードを設け、減点法を用いて人を画一化してゆく評価方式自体が、もう、頭悪いんですよ。そーいう考え方が染みつくと、人の長所探しより短所探ししかできないし、結果、そー言う人間の元には人が集まらないし、結果人に磨かれないから自分も成長しないのです。

自慢じゃないけど数学は得意だったのよね。昔。
で問題解くとき、何行にも及ぶ式を書いて問題解くわけですが、その式が例え10行であっても20行であっても、答えが合っていればその設問では満点をもらえます。でも、途中までしかあっていなければ、部分点しかもらえません。
その採点法はおかしいだろ。10行で正解に辿り着くのと、20行要するのとでは、解答の完成度として10行の方が優れているだろ。そもそも、解答が合っているときは途中の計算式は解答に考慮しないのに、不正解の時にはプロセスを考慮するのもおかしい話だ。
加点法にしてしまえば良いんだよ。減点法で考えるから世の中が狭くなる。視野も狭くなる、自分のキャパに収まらない部分、つまり100点以上の世界が見えなくなる。
減点法って言う考え方自体が、既に前近代的だし、「馬鹿だなコイツ」 って思いますけどね


さて最後に樋口氏の名誉回復。樋口氏の著書は、「頭の良い悪い」 を言っているけど、それは、馬鹿か否かとか、実務的に使えるか使えないかと言うことではなく、知的な会話=論理性に基づいた会話ができているかできていないかというチェックなので、そもそも 「頭の良い悪い」 とイコールではありません。確かに知的な会話は、「頭の良い悪い」 の一部分かも知れないけど、その全てではありませんのでね