ヒドイ極論

格差社会って何だろう (内田樹の研究室)

貧乏人が誰でも知的敬意を集めるわけでもなかろうし、また、(氏の仰るところの) 人間の「格付け」を年収で行ってる人ばかりが社会に溢れているともおもわんし、理屈としては首肯できる部分もないではないが極論であろうと。


誰もが溢れるほどの金を手にしたいと思っているのかもしれないが、差し当たり問題にされている格差というのは 「もっと金を」 ではなく 「全うに働いて真面目に生きても日々の生活に困窮する社会はどーなの」とか「同じ仕事してるのに、待遇に酷い格差があるのはどーなのよ」とか、私はそーいうことだと定義しています。
人間らしい生活をするための、最低限の金が得られないから問題なのであって、生活する上で最低限以上の金を得られるのに「もっとくれ」と言っている話ではないわけでありまして。
氏の仰ることは机上の理想論のように思えてなりません。


人はパンのみに生きるのではあらず

なるほど。それは確かにその通りだろう。だがパンのみを求める人間すべてが金の全能性を認めているわけでも、拝金イデオロギーに浸食されているわけでもなかろうに。


全うに働きたいから職をくれ
全うに真面目に働いたら3度の飯が食える社会にしてくれ


と望むのは、金の全能性を認めることなんでしょうか?
格差社会の問題は、「もっと金を」 という金の全能性という切り口の思想的な問題ではなく、「こーいう現実許せますか?」という現実の社会のあり方に対する問題と認知している私は、氏の意見は思想的に偏った極論のように思えます。


否定はしませんしうなずける部分もありますが、この理屈で格差社会を論じられても肯定はできません。的はずれじゃないかと。
バブル期に、金の全能性に対する警告として成される評論だったならば全面的に肯定したかもしれませんが。